朝鮮王朝の歴代王(仁祖~純宗)パーフェクトガイド(後編)|歴史・事件・ドラマ情報
朝鮮王朝の歴史を彩る個性豊かな王たち。前編では、王朝の礎を築いた初代・太祖から、壬辰倭乱という国難に直面した宣祖、そして波乱の生涯を送った光海君までの15人の王をご紹介しました。
後編となる今回は、クーデターによって即位し、二度の「胡乱(ホラン)」(北方民族の侵入)という屈辱を経験した第16代・仁祖から、激化する党争、英祖・正祖によるルネサンス、外戚が政治を牛耳った勢道政治、そして開国、大韓帝国樹立、日韓併合へと至る激動の時代を生きた最後の王・純宗までの12人の王たちを取り上げます。朝鮮王朝後期から末期にかけて、国はいかにして変貌し、終焉を迎えたのか。ドラマや映画でお馴染みの王様たちの、知られざる素顔や歴史の裏側を覗いてみましょう。
(※王の代数は即位順、在位年は旧暦に基づきます。名前は廟号(死後に贈られる称号)を基本とし、必要に応じて諱(本名)や君号(燕山君、光海君)を併記します。)
目次
動乱と屈辱の時代
第16代 仁祖(인조:インジョ)
- 在位: 1623年 – 1649年
- 概要: 第14代宣祖の孫(父は定遠君)。光海君の中立外交政策や廃母殺弟に反発した西人派勢力が起こしたクーデター「仁祖反正(インジョパンジョン)」によって王位に擁立されました。しかし、彼の治世は苦難の連続でした。即位直後にはクーデターの論功行賞に不満を持つ李适(イ・グァル)の乱が起こり、首都・漢陽を一時占領される事態に。外交面では、光海君の中立政策を覆し、親明反後金(後の清)政策をとったため、後金(清)との関係が悪化。二度にわたる侵攻を受けます。
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主な出来事:
- 仁祖反正(1623年): 光海君を廃位させ即位。
- 李适の乱(1624年): クーデター功臣の反乱。
- 丁卯胡乱(チョンミョホラン、1627年): 後金の第一次侵攻。朝鮮は後金と兄弟関係を結ぶことで和議。
- 丙子胡乱(ピョンジャホラン、1636-1637年): 国号を清と改めた皇帝ホンタイジによる第二次侵攻。仁祖は南漢山城(ナマンサンソン)に籠城するも降伏。三田渡(サムジョンド)でホンタイジに三跪九叩頭の礼をとるという屈辱的な降伏儀式を行い、清との君臣関係を受け入れさせられました。
- 昭顕世子の悲劇: 丙子胡乱の後、人質として清に送られた長男の昭顕世子(ソヒョンセジャ)は、清の進んだ文物に触れ、帰国後、朝鮮の改革を進めようとしますが、父・仁祖との対立の末、謎の急死を遂げます。毒殺説も根強いです。
- 関連作品: ドラマ『推奴(チュノ)』(2010)、ドラマ『三銃士』(2014)、ドラマ『華政(ファジョン)』、映画『天命の城(原題:南漢山城)』(2017) など。国難の中で苦悩し、時には猜疑心に駆られる王として描かれます。
第17代 孝宗(효종:ヒョジョン)
- 在位: 1649年 – 1659年
- 概要: 仁祖の次男。兄・昭顕世子の急死により世子となり、父の死後即位。自身も丙子胡乱後に兄と共に清へ人質として送られ、8年間の苦しい生活を送りました。その経験から、清への復讐(北伐:プクポル)を生涯の目標として掲げ、軍備増強や人材育成に努めました。
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主な出来事:
- 北伐計画: 宋時烈(ソン・シヨル)ら西人派の支持を得て、密かに清を討つための軍備拡張を進めましたが、国内の反対や財政難、自身の早世により、計画は実現しませんでした。
- 羅禅征伐(ナソンジョンボル): 清からの要請を受け、ロシア(羅禅)と戦う清軍に朝鮮の鉄砲部隊を派遣しました。(2回)
- 大同法の拡大: 光海君時代に始まった大同法(貢物を米で納める税制)の実施地域を、忠清道や全羅道の一部にまで拡大しました。
- 関連作品: ドラマ『馬医』(2012-2013)(孝宗の娘・淑徽公主が登場)、ドラマ『推奴(チュノ)』など。北伐への情熱を持つ王として描かれます。
第18代 顕宗(현종:ヒョンジョン)
- 在位: 1659年 – 1674年
- 概要: 孝宗の息子。彼の治世は、前代から続く西人派と南人派の党争が、服喪期間をめぐる論争「礼訟論争(예송논쟁:イェソンノンジェン)」として激化した時代でした。孝宗の死後、仁祖の継妃である荘烈王后(チャンニョルワンフ)がどれくらいの期間喪に服すべきか(孝宗を嫡長子と見なすか、次男と見なすかで変わる)を巡って、西人(孝宗は次男)と南人(王位を継いだので嫡長子扱い)が激しく対立しました(第一次礼訟:己亥礼訟)。その後、孝宗の妃(顕宗の母)が亡くなった際にも再び同様の論争(第二次礼訟:甲寅礼訟)が起こり、多くの儒学者が処罰されるなど、政治的な混乱が続きました。
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主な出来事:
- 礼訟論争(己亥礼訟、甲寅礼訟): 西人派と南人派の党争が激化。
- 大同法の拡大: 全羅道全域と慶尚道の一部で大同法を実施。
- 天災・飢饉: 在位中に飢饉や疫病が頻発し、民衆の生活は困窮しました。
- 関連作品: ドラマ『馬医』(顕宗の時代が舞台)など。党争に翻弄される王として描かれることがあります。
王権強化と宮廷闘争
第19代 粛宗(숙종:スクチョン)
- 在位: 1674年 – 1720年
- 概要: 顕宗の息子。14歳で即位。父の代に激化した党争を抑えるため、非常に強力な王権を発揮しました。特定の党派を支持するのではなく、状況に応じて支持勢力を次々と入れ替える「換局(환국:ファングク)」と呼ばれる政治手法を用い、臣下を巧みにコントロールしようとしました。その結果、彼の治世は安定するどころか、むしろ激しい宮廷闘争と政権交代が繰り返されることになります。特に、側室であった張禧嬪(チャン・ヒビン)を寵愛し、正室の仁顕王后(イニョンワンフ)を廃位させた事件は有名です。
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主な出来事:
- 換局政治: 庚申換局(1680)、己巳換局(1689)、甲戌換局(1694)など、政権担当の党派(西人⇔南人)が何度も入れ替わりました。
- 張禧嬪(張玉貞)と仁顕王后: 南人派の後ろ盾を得た張禧嬪を寵愛し、彼女が王子(後の景宗)を産むと王妃に立て、西人派が支持する仁顕王后を廃位(己巳換局)。しかし後に心変わりし、仁顕王后を復位させ、張禧嬪を嬪に降格(甲戌換局)、最終的には死を賜りました。この一連の事件は「三大妖婦(悪女)」の一人として張禧嬪を描くドラマの定番テーマです。
- 淑嬪崔氏(スクピンチェシ): 張禧嬪の失脚後、寵愛を受けたのが淑嬪崔氏(後の英祖の母)でした。
- 大同法の全国実施: 彼の治世に、朝鮮全土で大同法が実施されるようになりました。
- 常平通宝(サンピョントンボ)鋳造: 貨幣経済の発展を促しました。
- 関連作品: ドラマ『トンイ』(2010)(淑嬪崔氏が主人公)、ドラマ『張禧嬪[チャン・ヒビン]』(2002-2003)、ドラマ『チャン・オクチョン』(2013)、ドラマ『テバク〜運命の瞬間(とき)〜』(2016) など。強力なカリスマを持つ王、あるいは女性たちに翻弄される王として描かれます。
第20代 景宗(경종:キョンジョン)
- 在位: 1720年 – 1724年
- 概要: 粛宗と張禧嬪の息子。母・張禧嬪が賜死させられたという過去を持ち、自身も病弱で、治世中は常に王位継承をめぐる党争(老論派と少論派の対立)に悩まされました。老論派は、粛宗の晩年に世弟(王位継承者である弟)に冊封された異母弟の延礽君(ヨニングン、後の英祖)を支持し、景宗を支持する少論派と激しく対立しました。
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主な出来事:
- 老論・少論の党争激化: 辛壬士禍(シニムサファ、1721-1722年)など、両派閥間の粛清が繰り返されました。
- 短い治世: 即位からわずか4年で病死。毒殺説も囁かれました。
- 関連作品: ドラマ『トンイ』、『テバク〜運命の瞬間(とき)〜』、『ヘチ 王座への道』(2019) など。病弱で気弱、党争に翻弄される王子・王として描かれることが多いです。
蕩平政治とルネサンス、そして悲劇

英祖・正祖の時代、朝鮮王朝は文化的な黄金期を迎えるが、そこには悲劇も潜んでいた。
第21代 英祖(영조:ヨンジョ)
- 在位: 1724年 – 1776年
- 概要: 粛宗と淑嬪崔氏の息子で、景宗の異母弟。母の身分が低かった(元水汲み婢)という出自のコンプレックスを抱えながらも、兄の急死により王位を継承。朝鮮王朝の歴代王の中で最も長寿(81歳)であり、最も長い期間(52年間)在位しました。治世前半は兄・景宗の毒殺説や自身の正統性をめぐる論争に苦しめられましたが、後半は党争の弊害を痛感し、各党派から人材を均等に登用する「蕩平策(탕평책:タンピョンチェク)」を推進し、王権を強化。様々な改革を行い、朝鮮王朝後期の安定と復興の基礎を築きました。しかし、晩年には実の息子である思悼世子(サドセジャ)を米びつに閉じ込めて餓死させるという、朝鮮王朝史上最大の悲劇を引き起こしてしまいます。
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主な功績・出来事:
- 蕩平策の推進: 老論・少論などの派閥間の対立を緩和し、バランスの取れた政治を目指しました。
- 均役法(균역법:キュニョクポプ)施行: 民衆の軍役負担を軽減するための税制改革。
- 法典整備: 『続大典』などの法典を編纂。
- 民生安定策: 厳しい刑罰の緩和、飢饉対策など。
- 思悼世子の悲劇(壬午禍変:イモファビョン、1762年): 精神的に不安定になったとされる息子・思悼世子を廃世子とし、米びつに閉じ込めて餓死させました。この事件は、党争や英祖自身の性格など、様々な要因が絡み合った複雑な悲劇であり、後世に大きな影響を与えました。
- 関連作品: ドラマ『トンイ』、『イ・サン』(2007-2008)(正祖の祖父として)、『秘密の扉』(2014)、『ヘチ 王座への道』、映画『王の運命 -歴史を変えた八日間-(原題:思悼)』(2015) など。名君としての側面と、息子を死に至らしめた冷酷な父としての側面、その両面から描かれます。
第22代 正祖(정조:チョンジョ)
- 在位: 1776年 – 1800年
- 概要: 英祖の孫で、悲劇的な死を遂げた思悼世子の息子。父の死という辛い経験を乗り越え、祖父・英祖の死後、王位に就きました。祖父の蕩平策を受け継ぎながら、より積極的に改革を推進し、文化・学術を花開かせた、朝鮮王朝後期を代表する名君・改革君主です。自身の権力基盤を強化するため、若手エリートを育成する奎章閣(キュジャンガク)を設置し、身分にとらわれず人材を登用。水原華城(スウォンファソン)という壮大な城塞都市を建設したことでも知られます。彼の治世は「朝鮮後期ルネサンス」とも称されます。
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主な功績・出来事:
- 蕩平策の継承と発展: 英祖の政策を引き継ぎ、各党派間のバランスを取りながら、有能な人材を登用しました。
- 奎章閣(규장각:キュジャンガク)設置: 王立図書館兼学術研究機関として、若手官僚の育成や政策研究の中心となりました。
- 水原華城(수원 화성:スウォン ファソン)建設: 父・思悼世子の墓を移し、自身の政治的理想を実現するための拠点として、当時の最新技術を結集して華城を建設しました。(世界文化遺産)
- 文化・学術の振興: 実学(シルハク)と呼ばれる実用的な学問が発展。多くの書籍が編纂・刊行されました。庶民文化も花開きました。
- 経済改革: 商業活動の自由化(辛亥通共:シネトンゴン)、貨幣経済の活性化などを図りました。
- 軍制改革: 親衛隊である壮勇営(チャンヨンヨン)を創設し、王権を強化しました。
- 急死: 様々な改革を進める中、47歳で急死。その死因については、毒殺説も根強く囁かれています。
- 関連作品: ドラマ『イ・サン』、『トキメキ☆成均館スキャンダル』(2010)、『風の絵師』(2008)、映画『王の涙 -イ・サンの決断-(原題:逆鱗)』(2014)、映画『王の運命 -歴史を変えた八日間-』など。理想に燃える改革君主、あるいは父の死のトラウマを抱える孤独な王として、非常に魅力的に描かれることが多いです。
勢道政治と国の傾き
正祖の死後、朝鮮王朝は再び混乱期に入ります。王の外戚(母方や妻方の親戚)や特定の有力家門が権力を独占する「勢道政治(세도정치:セドジョンチ)」の時代です。
第23代 純祖(순조:スンジョ)
- 在位: 1800年 – 1834年
- 概要: 正祖の次男。父の急死により、わずか11歳で即位しました。そのため、治世初期は曾祖母にあたる貞純王后(チョンスンワンフ、英祖の継妃)による垂簾聴政が行われました。貞純王后の死後は、純祖の妃の家系である安東金氏(アンドンキムシ)一族が政治の実権を掌握し、勢道政治が始まりました。安東金氏一族は、要職を独占し、政治を壟断。汚職や収賄が横行し、政治は腐敗、民衆の生活は困窮しました。
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主な出来事:
- 勢道政治の開始: 安東金氏による権力独占。
- 辛酉迫害(シニュバクヘ、1801年): 大規模なカトリック教徒弾圧事件。
- 洪景来(ホン・ギョンネ)の乱(1811年): 平安道で起こった大規模な農民反乱。勢道政治への不満が背景にありました。
- 関連作品: ドラマ『雲が描いた月明り』(2016)(純祖の息子・孝明世子がモデル)、ドラマ『哲仁王后』(2020-2021)(後の哲宗の時代だが、安東金氏の勢力が描かれる)など。
第24代 憲宗(헌종:ホンジョン)
- 在位: 1834年 – 1849年
- 概要: 純祖の孫(父・孝明世子は早世)。祖父・純祖の死後、8歳で即位。そのため、祖母にあたる純元王后(スヌォンワンフ、純祖の妃)による垂簾聴政が行われ、安東金氏の勢道政治が継続されました。後に、憲宗の母(神貞王后)の実家である豊壌趙氏(プンヤンチョシ)が台頭し、安東金氏との間で激しい権力闘争が繰り広げられました。政治の混乱は続き、民衆の不満は高まる一方でした。憲宗自身は若くして(22歳)病死しました。
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主な出来事:
- 勢道政治の継続と権力闘争: 安東金氏 vs 豊壌趙氏。
- 己亥迫害(キヘバクヘ、1839年): 再び大規模なカトリック教徒弾圧。
- 西洋船の出現: フランスやイギリスの船が朝鮮近海に出没し始めます(異陽船:イヤンソン)。
第25代 哲宗(철종:チョルチョン)
- 在位: 1849年 – 1863年
- 概要: 憲宗が世継ぎを残さずに亡くなったため、王族の中から選ばれた人物。彼は正祖の異母弟・恩彦君(ウノングン)の孫にあたりますが、祖父や父が謀反の疑いで流罪となっていたため、自身も江華島(カンファド)で農業をしながら、王族としての教育も受けずに育ちました。「江華島の若様(강화도령:カンファトリョン)」と呼ばれます。純元王后(純祖の妃、安東金氏)によって擁立され、即位後も安東金氏による勢道政治が続きました。政治に関心を持つ機会もなく、民衆の生活は困窮を極め、各地で民乱が頻発しました。
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主な出来事:
- 安東金氏による勢道政治の継続。
- 壬戌民乱(イムスルミルラン、1862年): 晋州(チンジュ)で起こった農民反乱が全国に波及した大規模な民乱。三政(田政・軍政・還穀)の紊乱(腐敗)が主な原因でした。
- 関連作品: ドラマ『哲仁王后』(現代男性の魂が哲宗時代の王妃に入り込むコメディ時代劇)、ドラマ『風と雲と雨』(2020) など。無力な王、あるいは純朴な人物として描かれることがあります。
開国、帝国、そして終焉へ
哲宗の死後、朝鮮王朝は国内外からの圧力が高まる激動の時代へと突入します。

開国、帝国樹立、そして国権喪失へ…激動の時代を生きた高宗。
第26代 高宗(고종:コジョン)
- 在位: 1863年 – 1907年(大韓帝国皇帝としては 1897年 – 1907年)
- 概要: 哲宗に世継ぎがいなかったため、王族(興宣君:フンソングン)の次男として12歳で即位。治世初期は父である興宣大院君(フンソンデウォングン)が摂政として政治の実権を握り、強力な鎖国攘夷政策と国内改革を進めました。成人し親政を開始すると、妻である閔妃(ミンビ、後の明成皇后)一族が力を持つようになり、開国へと舵を切ります。しかし、その後は日本、清、ロシアなど列強諸国の介入と干渉、国内の政治対立(開化派 vs 守旧派)に翻弄され、国は混乱を極めます。日清戦争、日露戦争を経て、日本の影響力が強まる中、1897年に国号を「大韓帝国」と改め、初代皇帝となりますが、実質的な国権は失われつつありました。1905年の乙巳保護条約で外交権を奪われ、1907年のハーグ密使事件をきっかけに、日本によって強制的に退位させられました。
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主な出来事:
- 興宣大院君の摂政(~1873年): 鎖国攘夷政策(丙寅洋擾、辛未洋擾)、国内改革(書院撤廃、景福宮再建など)。
- 開国(1876年): 日朝修好条規(江華島条約)の締結。
- 壬午軍乱(1882年): 旧式軍隊の反乱。
- 甲申政変(1884年): 開化派によるクーデター(三日天下)。
- 東学農民運動(甲午農民戦争、1894年): 大規模な農民蜂起。
- 日清戦争(1894-1895年): 朝鮮半島をめぐる日本と清の戦争。
- 甲午改革(1894-1896年): 日本の影響下での近代化改革。
- 乙未事変(1895年): 閔妃(明成皇后)が日本公使らによって殺害された事件。
- 大韓帝国宣布(1897年): 国号を大韓帝国とし、高宗は皇帝に即位。
- 日露戦争(1904-1905年): 朝鮮半島と満州の権益をめぐる日本とロシアの戦争。
- 乙巳保護条約(第二次日韓協約、1905年): 日本が韓国の外交権を剥奪し、統監府を設置。
- ハーグ密使事件(1907年): 乙巳保護条約の無効を訴えるため、高宗がオランダのハーグ万国平和会議に密使を派遣した事件。これが日本の怒りを買い、退位に繋がります。
- 関連作品: ドラマ『明成皇后』(2001-2002)、ドラマ『宮廷女官キム尚宮』(1995)、ドラマ『済衆院』(2010)、ドラマ『ミスター・サンシャイン』(2018)、映画『ラスト・プリンセス 大韓帝国最後の皇女』(2016)、映画『コーヒー』(2012) など。激動の時代に翻弄される国王・皇帝として、様々な角度から描かれます。
第27代 純宗(순종:スンジョン)
- 在位: 1907年 – 1910年(大韓帝国第2代皇帝)
- 概要: 高宗の二男(母は明成皇后)。父・高宗が退位させられた後、日本の影響下で即位した、朝鮮王朝最後の君主であり、大韓帝国第2代にして最後の皇帝です。しかし、実権は日本の統監府が握っており、名ばかりの皇帝でした。彼の治世下の1910年、日韓併合条約が締結され、大韓帝国は日本の植民地となり、約519年間続いた朝鮮王朝(李氏朝鮮)はその歴史に幕を閉じました。
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主な出来事:
- 即位(1907年)
- ハーグ密使事件の後処理
- 日韓併合(1910年): 大韓帝国の終焉。
- 関連作品: ドラマ『ミスター・サンシャイン』、映画『ラスト・プリンセス 大韓帝国最後の皇女』など。王朝最後の悲劇的な君主として、わずかながら描かれることがあります。
王位継承の裏側:なぜ嫡長子は少なかったのか?
元記事の指摘にもあるように、朝鮮王朝27人の王の中で、王妃から生まれた長男(嫡長子)として正当に王位を継承したとされる人物は、文宗、端宗、燕山君、仁宗、顕宗、粛宗、純宗のわずか7人(または数え方により変動)に過ぎません。嫡長子が世子(世継ぎ)に冊立されながらも王になれなかったケース(早世、廃位など)も多くありました。
これは、儒教の理想としては嫡長子相続が原則とされながらも、実際には
- 世子の早世や病弱
- 王位をめぐる激しい権力闘争(王子の乱、クーデター)
- 側室の子や傍系からの擁立(政治的意図)
- 暴政による廃位
といった様々な要因により、必ずしも理想通りにはいかなかった朝鮮王朝の厳しい現実を物語っています。王位継承問題は、しばしば政治的混乱や悲劇の引き金となってきました。
【会話例:歴史の学び】
가: 조선왕조를 공부했는데 역사에는 우리가 모르는 것이 많네.
朝鮮王朝を勉強したけど、歴史には私達が知らないことが多いね。나: 그러게.
そうだよね。가: 아무튼 어느 왕이든 비극이 있다는 것을 알게 되었으니까 역사에 대해 더 공부하려고 해.
とにかく、どの王にも(程度の差はあれ)悲劇があったことを知ったから、歴史についてもっと勉強しようと思ったよ。
まとめ:朝鮮王朝後期の光と影を知る
朝鮮王朝の後期から末期(第16代仁祖~第27代純宗)は、外敵の侵入による屈辱、激化する党派争い、王権の浮沈、優れた王による改革と文化の爛熟、そして深刻化する外戚政治、民衆の反乱、近代化の波と列強の圧力、そして王朝の終焉へと至る、まさに光と影が交錯する激動の時代でした。
英祖や正祖のような名君が登場し、文化的な黄金期を築いた一方で、勢道政治による国の衰退や、高宗・純宗時代の国権喪失といった悲劇も経験しました。この時代の王たちの功績や苦悩、そして歴史的な出来事を知ることは、現代の韓国を理解する上でも非常に重要です。
韓国時代劇ドラマや映画には、この時代の王や出来事を扱った名作がたくさんあります。この記事を参考に、ぜひ様々な作品に触れ、朝鮮王朝の歴史の奥深さをさらに探求してみてはいかがでしょうか。