歴史を変えた1987年韓国民主化闘争|朴鍾哲・李韓烈事件と6月抗争、民主化への道
日本がバブル景気に沸き、華やかな時代を謳歌していた1980年代。その頃、お隣の韓国では、国の未来を大きく左右する歴史的な出来事が起きていました。軍事独裁政権に対する国民の不満が頂点に達し、民主化を求める声が激しい抵抗運動へと発展したのです。それが、1987年の「韓国民主化闘争」です。
学生の拷問死事件をきっかけに、市民をも巻き込んだ大規模なデモへと発展し、ついに政権を譲歩させたこの闘いは、現代韓国の民主主義の礎を築いた重要な転換点となりました。今回は、1987年に韓国で何が起こったのか、その背景から事件の経緯、そして民主化実現までの道のりを詳しく解説します。
目次
民主化への渇望:1980年代韓国の時代背景
1987年の民主化闘争を理解するためには、まず当時の韓国が置かれていた状況を知る必要があります。
朴正煕暗殺と「ソウルの春」
18年間にわたる強力な開発独裁体制を敷いた朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が、1979年10月に側近によって暗殺されると、韓国社会には一時的に民主化への期待感が広がりました。この時期は「ソウルの春」と呼ばれ、学生や知識人を中心に、民主的な憲法改正や政治活動の自由化を求める声が高まりました。
光州事件と全斗煥軍事独裁政権の成立
しかし、その期待は長くは続きませんでした。朴正煕暗殺後の権力空白に乗じて軍内部の実権を掌握したのが、全斗煥(チョン・ドゥファン)を中心とする新軍部勢力でした。彼らは1979年12月にクーデター(粛軍クーデター)を起こし、軍の主導権を握ります。
翌1980年5月、全斗煥ら新軍部は非常戒厳令を全国に拡大し、民主化運動指導者や学生リーダーを一斉に逮捕。これに抗議した光州(クァンジュ)市民に対し、軍が武力で弾圧するという「光州事件」が発生しました。多数の死傷者を出したこの悲劇は、その後の韓国社会に深い傷を残すとともに、軍事政権への強い不信感を植え付けました。
そして同年9月、全斗煥は形式的な間接選挙(統一主体国民会議)によって第11代大統領に就任。翌年には第五共和国憲法を制定し、再び間接選挙で第12代大統領に選出され、本格的な軍事独裁政権を確立します。韓国は再び、厳しい抑圧の時代へと逆戻りしたのです。
抑圧下の民主化運動
全斗煥政権下では、言論・報道の自由は厳しく制限され、政府に批判的な活動は徹底的に弾圧されました。秘密警察や治安機関が国民を監視し、多くの民主活動家や学生が不当に逮捕・投獄され、拷問を受けることも少なくありませんでした。しかし、そのような厳しい状況下でも、民主化を求める人々の声が完全に消えることはありませんでした。大学を中心に、学生たちは秘密裏に活動を続け、政府への抗議活動やデモを繰り返していました。
導火線となった悲劇:朴鍾哲拷問致死事件
国民の不満と民主化への渇望が水面下で高まる中、1987年初頭に起きた一つの事件が、状況を一変させる引き金となります。
学生運動家パク・ジョンチョルの死
1987年1月14日、ソウル大学言語学科の学生だった朴鍾哲(パク・ジョンチョル)さん(当時21歳)が、学生運動の先輩の所在を尋問するため、治安本部(警察庁の前身の一つで、特に公安・対共捜査を担当)によってソウル市南営洞(ナミョンドン)の対共分室に任意同行の名目で連行されました。そして、その翌日、取り調べ中に死亡したのです。
隠蔽工作:「机を叩いたら…」
事件発覚を恐れた警察は、当初、事実を隠蔽しようとします。緊急往診で呼ばれた医師に対し、刑事は「水を飲んでいて倒れた」と虚偽の説明をしました。しかし、遺体の状況から不審に思った医師は、死亡診断書に死因「未詳」、死亡場所「対共分室」と記入し、司法解剖の必要性を示唆します。
この情報が、偶然トイレで医師に会った新聞記者に伝わり、翌日の新聞には「警察で調査受けた大学生ショック死」という小さな記事が掲載されました。事態を重く見た警察は記者会見を開きますが、そこで姜玟昌(カン・ミンチャン)治安本部長が発表したのは、「捜査官が机を『パン!』と叩いたら、『オッ!』と言って心臓麻痺で死んだ」という、あまりにも荒唐無稽な内容でした。この発表は、国民の怒りと不信感をさらに煽ることになります。

隠蔽された真実を暴こうと、多くの人々が勇気ある行動をとった。
真実を求めた人々:医師、検事、記者、刑務官
警察による隠蔽工作が進む中、真実を明らかにしようとする人々の勇気ある行動が続きます。遺体を速やかに火葬しようとする警察の動きに対し、ソウル地検の崔桓(チェ・ファン)公安部長(当時)は、拷問の疑いを持ち、職権で司法解剖を指示。解剖の結果、朴鍾哲さんは水拷問によって窒息死したことが判明します。これにより、警察も拷問の事実を認めざるを得なくなり、捜査官2名(チョ・ハンギョン、カン・ジンギュ)が逮捕されました。
しかし、実際には拷問にはさらに3人の捜査官が関与していました。この事実は、逮捕された2人が収監された刑務所の保安係長・安有(アン・ユ)によって密かに外部に伝えられます。同じ刑務所に収監されていた民主化運動家の李富栄(イ・ブヨン)がその情報を聞きつけ、刑務官たちの協力を得て、外部の民主化運動関係者(金正男:キム・ジョンナム)と手紙のやり取りを重ね、事件の全貌を記録しました。
衝撃の暴露と国民の怒り
そして同年5月18日、光州事件から7年目にあたるこの日、カトリック正義具現全国司祭団の金勝勲(キム・スンフン)神父が、ミサの場でこの事件の真相(拷問に関与した警官がさらに3人いたこと、警察上層部による組織的な隠蔽工作があったこと)を暴露する声明を発表します。この暴露は韓国社会に巨大な衝撃を与え、全斗煥政権に対する国民の怒りは頂点に達しました。
炎上する民主化への願い:李韓烈死亡事件
朴鍾哲事件の真相暴露により、民主化を求める声はかつてないほど高まっていました。そんな中、さらなる悲劇が起こります。
催涙弾直撃という悲劇
1987年6月9日、延世(ヨンセ)大学で行われた民主化要求デモに参加していた経営学科2年生の李韓烈(イ・ハニョル)さん(当時20歳)が、デモ隊を鎮圧しようとした戦闘警察(機動隊)が水平発射した催涙弾(SY-44)の破片を後頭部に受け、重体となります。この衝撃的な瞬間を捉えた写真は、当時の民主化運動の象徴として広く知られることになります。李韓烈さんは、約1ヶ月後の7月5日に息を引き取りました。
学生から市民へ:抗議運動の拡大
朴鍾哲さんに続き、前途ある若者が再び国家権力の犠牲となったこの事件は、国民の怒りをさらに増幅させました。これまで学生運動に距離を置いていた一般市民、特に都市部の中産階級やサラリーマン層も、政権の非道なやり方に強い憤りを感じ、民主化運動への支持・参加へと舵を切ることになります。
韓国全土を揺るがした「6月民主抗争」
李韓烈さんが催涙弾に打たれた翌日の1987年6月10日、「朴鍾哲君拷問殺人隠蔽糾弾及び護憲撤廃国民大会」が全国各地で開催されました。この日を境に、韓国全土で民主化を求める大規模なデモや集会が連日繰り広げられることになります。これが「6월 민주 항쟁(6月民主抗争)」です。

1987年6月、民主化を求める声は韓国全土に広がり、歴史を動かす力となった。
1987年6月10日からの全国的なデモ
6月10日以降、ソウルをはじめ釜山、光州、大邱など全国の主要都市で、連日数十万人規模のデモが行われました。学生だけでなく、多くの市民が自発的に街頭に出て、「護憲撤廃!」「独裁打倒!」「直接選挙制争取!」といったスローガンを叫びました。デモ隊は催涙弾を発射する機動隊と激しく衝突し、街中は騒然とした状況となりました。
「ネクタイ部隊」も参加:広がる支持層
この6月民主抗争の大きな特徴は、これまで学生が中心だった民主化運動に、一般のサラリーマン層が「ネクタイ部隊」として大挙して参加したことです。彼らは昼休みや退勤後にデモに合流し、クラクションを鳴らしてデモ隊を応援するなど、様々な形で運動を支持しました。これにより、民主化運動は一部の活動家のものから、国民全体の要求へと変貌を遂げたのです。
国際社会の目とソウルオリンピック
当時、韓国は翌1988年にソウルオリンピックの開催を控えていました。民主化を求める国民を武力で弾圧する様子は海外メディアでも大きく報じられ、国際社会からの批判が高まっていました。オリンピックの成功を政権の威信にかけて目指していた全斗煥政権にとって、国際的なイメージダウンは大きな打撃であり、強硬策を取り続けることが難しくなっていく要因の一つとなりました。
歴史的転換点:6・29民主化宣言
全国に広がる大規模なデモと、国際社会からの圧力により、全斗煥政権は追い詰められていきます。軍隊の投入による武力鎮圧も検討されましたが、さらなる犠牲と混乱を招くことへの懸念から断念。最終的に、政権は国民の要求を受け入れる決断を下します。
追い詰められた政権と盧泰愚の決断
全斗煥大統領は、自身の後継者として、友人であり新軍部の中核メンバーだった盧泰愚(ノ・テウ)を、間接選挙によって次期大統領候補に指名していました。しかし、国民の直接選挙制への要求はあまりにも強く、このままでは政権維持が不可能であると判断。最終的に、盧泰愚・次期大統領候補(当時、与党・民主正義党代表委員)が、国民の要求を受け入れる形で民主化措置を発表することになります。
宣言の主な内容(大統領直接選挙制改憲など)
1987年6月29日、盧泰愚は「国民和合と偉大な国家への前進のための特別宣言」、通称「6・29民主化宣言」を発表しました。その主な内容は以下の通りです。
- 大統領直接選挙制への改憲を速やかに行う
- 金大中(キム・デジュン)氏をはじめとする民主化運動指導者の赦免・復権
- 国民の基本的人権の保障(拘束適否審制度の拡大など)
- 言論の自由の保障(言論基本法の廃止など)
- 大学の自律化と教育の自由化
- 地方自治の実施
- 政党活動の保障
- 社会浄化措置の実施
この宣言は、国民の民主化要求を全面的に受け入れるものであり、韓国国民から熱狂的に歓迎されました。
民主化への扉が開かれる
6・29宣言に基づき、同年10月には大統領直接選挙制を盛り込んだ新憲法(現行憲法)が国民投票で承認されました。そして12月には、16年ぶりとなる大統領直接選挙が実施され、盧泰愚が当選しました(野党候補の金泳三と金大中が分裂したことが与党勝利の要因となりました)。選挙結果には課題も残りましたが、国民自身の力で大統領を選べるようになったことは、韓国の民主主義にとって画期的な前進でした。
記憶と継承:映画『1987、ある闘いの真実』
この1987年の出来事は、韓国現代史において極めて重要な意味を持っています。その記憶を風化させず、後世に伝えようとする動きも活発です。
映画が描いたものとその反響
2017年に公開された韓国映画『1987、ある闘いの真実』(原題:1987)は、朴鍾哲拷問致死事件の発生から、その真相が暴露され、6月民主抗争へと繋がっていく過程を、事件に関わった様々な人々の視点から描いた作品です。権力の圧力に屈せず真実を追求した検事や記者、医師、刑務官、そして民主化を叫んだ学生や市民たちの勇気と葛藤を生々しく描き出し、韓国で観客動員数700万人を超える大ヒットを記録しました。特に若い世代にとっては、自分たちが享受している民主主義が、多くの人々の犠牲と闘いの末に勝ち取られたものであることを再認識させるきっかけとなりました。
豪華キャストと史実の再現
この映画には、キム・ユンソク(対共捜査所長役)、ハ・ジョンウ(公安部長役)、ユ・ヘジン(刑務官役)、キム・テリ(架空の学生役)、イ・ヒジュン(記者役)といった実力派俳優に加え、カン・ドンウォン(李韓烈役)、ソル・ギョング(民主活動家役)、ヨ・ジング(朴鍾哲役)などが特別出演し、豪華なキャスト陣も話題となりました。史実に基づきながらも、エンターテイメント性の高い作品として高く評価されています。
【会話例:映画の感想】
미나:유리씨, ‘1987’이라는영화 봤어요?
ミナ:ユリさん、『1987』という映画観ましたか。유리:아니요. 어떤 영화인가요?
ユリ:いいえ。どんな映画なんですか。미나:박종철 고문치사사건부터 6월민주항쟁에 이르기까지의 과정을 그린 영화인데 보다가 너무 감동해서 울어버렸어요.
ミナ:朴鍾哲拷問致死事件から6月民主抗争に至るまでの過程を描いた映画なんですが、観ていたらとても感動して、泣いてしまいました。유리:그렇군요. 저도 그 영화를 꼭 봐야겠네요.
ユリ:そうなんですね。私もその映画を必ず観ないといけませんね。
1987年民主化闘争が残したもの
1987年の民主化闘争は、単なる過去の出来事ではなく、現代の韓国社会にも大きな影響を与え続けています。
韓国民主主義の礎
この闘争によって勝ち取られた大統領直接選挙制や言論の自由、基本的人権の保障などは、今日の韓国民主主義の根幹をなしています。軍事独裁政権から民主主義体制へと移行する上で、決定的な役割を果たした出来事として記憶されています。
市民の力と記憶の重要性
1987年の経験は、普通の市民一人ひとりの声や行動が集まれば、巨大な権力をも動かし、社会を変えることができるということを証明しました。この成功体験は、その後の韓国における活発な市民運動の原動力の一つとなっています。同時に、民主主義は決して当たり前のものではなく、常に監視し、守り、発展させていく必要があること、そして過去の犠牲や闘いを忘れてはならないことを、韓国社会に問い続けています。
まとめ:現代韓国を理解する上で知っておくべき歴史
1987年の韓国民主化闘争は、多くの犠牲を伴いながらも、国民自身の力で民主主義を勝ち取った、韓国現代史における輝かしい瞬間でした。朴鍾哲さんや李韓烈さんのような若者たちの死、そして真実を明らかにしようとした人々の勇気、街頭で民主化を叫んだ無数の市民たちの熱意が、今日の韓国社会の礎を築いたのです。
現在の活気ある韓国の姿の裏には、このような激動の歴史があったことを理解することは、韓国という国、そしてそこに生きる人々をより深く知る上で、非常に重要と言えるでしょう。機会があれば、映画『1987、ある闘いの真実』を観てみるのも、この歴史的な出来事をより身近に感じる良いきっかけになるかもしれません。